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「戦後レジーム」からの脱却を諦めたのか」。
こんな見出しを月刊日本が打った。
安倍首相の真珠湾訪問をどう見るか」という記事の冒頭である。

どうも、対米従属として安倍首相の真珠湾訪問を否定的に捉える
論調のようだ。戦没者の慰霊(少なくとも公にはそうなっているはずである
が対米従属だと言うのは、悪意のある解釈だと私は思うが、
それは措いておこう。

上記の記事は、『日本会議をめぐる四つの対話』からの引用へと進む。
どうも真珠湾訪問を機会に
「対米従属」を論じ、更には関係書籍の宣伝をしようということだったようだ。
別に、それ自体は構わない。議論にはそれに適した時節というものが
あるのだろうから、それを捉えてさえいれば
捉えていないし、主張内容も無理筋だと私は思うが)。 

以下、同記事が紹介する『日本会議をめぐる四つの対話』からの
孫引きである。具体的には、白井聡氏の言葉の引用となる。

日本会議が現行憲法を批判するのは、対米従属についてきちんと考えずに、
感情ベースでのみ捉えているからじゃないかと思います。
彼らがなぜ憲法のような抽象物をあれほど憎めるのだろうかと考えた時、
あれは反米感情の代償行為だと思うんです。つまり、戦後憲法がけしからんと
言うのなら、本来であれば憲法を作ったアメリカを批判すべきですが、
それができないものだから、アメリカを憎む代わりに
アメリカの置き土産を憎んでいるんですよ。
これは、日本会議がリベラルなものに対してほとんど生理的なまでに嫌悪感を
持っていることについても言えると思います。なぜ日本が一応自由民主主義を
公的価値とする社会になったかと言えば、要はGHQがそのように改革をしたからです。
だから、リベラルな権利要求を批判するなら、そのような社会作りを強制したアメリカに
従属していていいはずがない。
だけど、彼らには対米従属という問題系は全然ありませんよね。


[議論が一方的ではないか?]

何故か議論が日本会議批判に移っていることは、ここでは問題にしない。
私が不思議に思うことは、まず一つには、「憎む」とか「嫌悪感」という
感情論としてある種の主張が片付けられようとしている
ことだ。
これははっきり言って、議論として失格である。

「結局は、嫌いだからそんなこと言うんでしょ?」がまかり通るなら、
議論の余地など残らないからである。相手は非理性的だから、
言うことを聞く必要などない、と一方的に断じるにも等しい。
あまりに身勝手かつ独善的な勝利宣言ではないか。
実際、この手の主張が今の日本には蔓延していると私は感じている。
 この意味でまっとうな言論空間など、殆ど期待できないのではないかと感じるほどだ。
 但し、そもそも議論などする気がない、という可能性については否定しない

しかも、対米従属そのものは議論の前提となっている印象を受ける。
これは公正ではないと私は思う。
私は、日本がアメリカに対して従属していない、と主張するつもりはない。
 しかしこれは、従属している、と主張する人々が証明するベき事柄であろう

なお、私には日本会議を擁護する意図はない。
単に、この日本会議批判はあまり公正ではない、
と言いたいだけである。


[自由民主主義とはアメリカ的なのか?]

また、白井氏の言葉によれば「憲法は憎いが、
しかし憲法を作ったアメリカを批判できないから、その代わりに憲法を憎む」
という構造があるという。これは循環しており、これはどこがスタートか分かり辛い
ので自分なりに整理してみよう。

恐らく、氏は「アメリカの代わりに憲法を憎む」がスタートだと
言いたいのではないかと思う。だとすると、同種の事柄として
理解されている「リベラルな権利要求への批判」もアメリカへの憎しみの
代償行為ということになるだろう。

つまり、「アメリカ的なもの」への憎しみを行動原理とするにも拘わらず、
外交的には対米従属だという矛盾を氏は指摘しているのであろう。
しかしここに、私の第二の疑問がある。
それは「自由民主主義を日本が公的価値としている」という事実主張、
そしてそれを作ったのがアメリカ(あるいはGHQ)である、という事実主張である。
これは本当なのだろうか。


前置きが長くなった。私はこのことを「民主主義とは何か」という論点から
問い直したいと思っている。それも、それなりの時間と記事の回数をかけて。
もう少し言えば、「民主主義」という言葉があまりに便利に、しかも各々の立場に
おいて身勝手に使われている現状を私は嘆いている。
今回はその契機として、「自由民主主義」なるものを見て行こう。

最初に確認しておかねばならないことは、「自由民主主義」という言葉が
自由主義liberalismと民主主義democratismのハイブリッド、あるいは
自由主義liberalismと民主制democracyのハイブリッドである、という点である。

私が関心を持つ本丸はむしろdemocratismとdemocracyの方なのだが、
今回は民主制という政治形態(普通選挙による議会政治)と、
それを志向する主張としての民主主義、というくらいで留めておこう。
いずれ、詳しく調べて記事を書きたいと思う。

さて、もう一方の自由主義liberalismについてだが、
この「自由主義」とは決して一義的な言葉ではなく、様々な文脈で
異なった意味において語られる。このことを踏まえずに自由主義を
論じるのは不適切であろう。しかしこの点が、私の力不足もあって
よく分からないのである。

「リベラルな権利要求」とは、何を意味するのか。推測に過ぎないが、
恐らくは「社会自由主義social liberalism」的な権利要求、ということ
なのだろう。しかし社会自由主義とはGHQが日本にもたらしたものなのか。
取り敢えず、トルーマン時代のアメリカの経済政策が
古典的自由主義からの脱却を目指したフランクリン・ルーズベルトの
ニューディールを受け継いでいたことは間違いないし、その点では
間違いではないのかも知れない。
しかし、これが現代日本の「リベラル」と結び付くのかと言えば、
もう少し慎重な議論が必要ではないか。

これらの論点を押さえていかなければ、本来は
自由主義(それも、ある特定の自由主義)も民主主義(これも、ある特定の民主主義)も
語ることができないはずなのである。
しかし、その議論は放り出されている。そんな風に私は感じる。


今回の記事は中途半端になってしまったが、
取り合えず問題意識を示したところで、次回への準備としたい。

ただ一つ言いたいのは、こうした「○○主義」なるものが、
あまりに無定義に氾濫している現状は是正されねばならない、
ということである。

錦の御旗だけ掲げても、正しさは証明されないのだから。
そして勿論、これらを論じ尽した先にこそ
「戦後レジーム」というものも見えてくるはずなのである。


                            
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