カガミナオヤの口先百編

タグ:政治

 ブログランキング・にほんブログ村へ 応援のクリックをお願い致します。
                              
[バズワード (buzzword):一見、説得力のある言葉のように見えて、
 実は定義や意味があいまいなキーワードのこと。]

                               コトバンクより

(もっと(私が)勉強しなくちゃ、という話)

一昔前に、プラスティック・ワードという言葉が流行った(?)が、
最近でも似たようなものはないかと探してみたら、「Buzzワード」というのが
見つかった(私が思うほど最近では無いかも知れないし、既に過ぎ去りつつある言葉かも
知れないが
)。さっそく、使ってみようと思う。私の感触としては、
こと「自由」やら「民主主義」やらという言葉には、
こちらの方がしっくりくる。確かに、これらの言葉には
どことなく喧しい響きがある(気がする)からだ。


さてもう一つ、こちらは反省である。
先回、「民主主義とは何か?①」では「民主主義」を扱うはずが
自由民主主義」とは何かを考えることになり、更にはそもそもこの
頭にくっついた「自由」とは......と話が的を失ってしまった。
結果として、「○○主義」という言葉自体が無定義に氾濫してはいないか、
と(やや無責任にも)疑問を提示するに至ったわけだが、してみると、
そもそもこれらの「民主主義」、「自由」、さらには「リベラル」等の
言葉自体が、上で言うBuzzワードだったのではないか。

私の不手際は、BuzzワードをBuzzyなままに使おうとした点に
会ったのではないか今は感じている。そこで、まずは(あくまで私なりに、
であって学術的なスタンダードではないにせよ
)これらの言葉を定義するところから
改めて始めることにしたい。しかし、これも簡単に済む話ではない。
一歩ずつ、先回に引っかかった「自由」から取り上げて少しずつ進んで行こう。
目標は、この言葉について回る曖昧さ(私が感じているだけかも知れない)を
できるだけ減じることである。
「民主主義」に議論が届く日は遠くなりそうだが、そこはご寛恕を戴きたい。


   ◇◇◇


【積極的自由と消極的自由】

1.
「自由」という言葉を考える時、そこには複数の文脈が混在している。
そして、それらが決して無関係では無いことが話を複雑にする。
しかしとにかく、出発点を確保するべく大づかみにしてみよう。
自由という概念は、次のように区分けすることができる。

 ① 何ものにも拘束されていないこと (=消極的自由
 ② 自分の思うままに行為できること (=積極的自由

当たり前だが、手足を縄で縛られた状態で歩くことができる人間は
常識的に考える限りで)いない。これは、歩かないことを強制されている、
拘束されているということであり、歩く自由を奪われている、ということになる。
逆に、縄を解けば歩く自由を得た、ということにもなるだろう。
これが「消極的自由」の典型的な例である。

他方しかし、いくら拘束が無いと言っても、何も持たせずに人間を
砂漠のど真ん中に「今日から自由だよ」と放り出しても、まず生存は
不可能である。ここまで極端ではなくても、拘束が無いだけでは
不十分だというケースは考えることができるだろう(何のために」不十分なのかが
当然問題になるが、一旦は措いて置く
)。少なくとも、砂漠に放り出された人間に
生きる自由がある、と主張することに問題がありそうだということは理解して
戴けると思う。
それ故、「自由」にはある程度まで「自身の望むことができる」という要素が
含まれると考えることができる。これが「積極的自由」の大枠である。

2.
さて、上には「区分け」と述べたが、この二つの「自由」概念は、
そこまで簡単に論じ分けられるものではない。まして、「積極的自由」が
「消極的自由」を補完する、という考え方にはやや無理が生じることには
注意が必要だろう。むしろ場面次第では、両者は鋭く対立する。

同じ例を見よう。砂漠に放り出された人間は仮に消極的には自由であっても、
積極的には自由ではない。「積極的自由」を重んじる人は、次のように主張する
だろう。「人が生存する自由を確保するために、何らかの準備が必要だ」と。
砂漠にオアシスを作るのでもいいし、あるいは砂漠から街に連れて行くのでも
いい。とにかく、「(積極的)自由のためには、それに相応しい仕組みが必要だ」という
主張がここに生じるのである。

これは、砂漠に放り出された人間・・・・・・折角だからリチャードとでも
名付けておこう。リチャードを都会の真ん中に連れて来ても同じである。
彼(男性だと仮定する)に何か図抜けた才覚でもあればともかく、
生活を保障してくれる最低限のものがなければ彼の生存する権利は
覚束ないのである。勿論、現代の社会においてはいわゆるセーフティーネットが
用意されている場合も多いから、そうした社会の中に放り出されたのであれば
彼は生き延びることができるだろう。しかし、ここがポイントである。
積極的自由を重んずる思想は、各人が自由であるよう社会そのものが
整備されることを要求する
のだ。これは、現代的な言葉で置き換えれば
正にセーフティーネットであり、社会保障や福祉政策の範疇になる。

対立が生じるのは、この点においてである。
以下、自由主義と社会主義という枠組みにおいてそれを見て行こう。


【自由主義と社会主義】

1.
さて、ここからいわゆる「自由主義」と「社会主義」という対立が見えてくる。
これらは、「積極的自由」をどれくらい担保するか、という問題を
経済に映しこんだもの
と言うことができるのである(少なくとも、図式的には)。

「積極的自由」を重んじない立場(「消極的自由」主義者と言えるだろうか)は、
簡単に言えば、出来る限りの拘束を取っ払って、後は自己責任、
というスタイルをよしとする。自分が手に入れたものは自分のものであり、
各人はこの全く平等な条件下で競争することになるが、それでいい。
この意味での「私有財産」の肯定競争原理の是認が、
即ち「自由主義」なのである。

砂漠に放り出されたリチャードは確かに生命の危機にあるが、
しかしオアシスを見つけたならば、それは(他人の所有物でなければ)彼のもの
である。そして将来的に、何か奇跡的な確率の下で油田でも発見したならば、
億万長者になることだってないとは言えない。そしてその時、リチャードは
そうして手にしたもの全てを「自分一人のもの」だと主張することができる。
敢えて良い側面を強調するなら、ハイリスクハイリターンが「自由主義」だと
言えるかも知れない。

2.
とはいえ、これはあまりに乱暴だという意見はありうるだろう。
見つけたものは自分のものだ、とは言っても、先に誰かが
取得していればそれを勝手に自分のものにはできない(あるいは、したければ戦争になる)。
「自由主義」にもルールは存在しており、しかも、
それは結果として勝者に都合のいいルールとなりがちなのである。
先に有意な立場を作ったものはその有利を活かして更に勝ち続け、
その差を覆すことは益々難しくなる(これは、実は世代間格差を考える際にも
重要だと私はおもう
)。これはよくない、と考える事情は理解してもらえると思う。

それ故、「自由主義」が標榜する自由や平等(いわゆる機会の平等である)は、
必ずしも文字通りのものとは言い切れない。言って見れば、それは
自由と平等の結果として生じた不平等(いわゆる結果の不平等である
を否定しない
のである(これはある意味では当然であり、
必ずしも批判されるべきものではないが
)。

これを是正しよう、という立場が「社会主義」である。
社会主義と一口に言っても内情は時と場所により様々だが、
いずれにせよ「自由主義の結果として生じる不平等を予防・是正する
という立場であることは認めてよいと思う(ここではこれくらいの広い意味で
社会主義を理解するに留めておきたい
)。

結論からすれば、このために「社会主義的な政策」とは、
社会保障や福祉に重点を置くものであり、また高所得者に課税する等の
手段による再分配を重視したものとなる
。そしてこれは、やや短絡で
あることを自覚の上で言えば、「積極的自由」のためなのである。


3.
さて、ここまで読まれた方は気付かれたことと思うが、
「自由主義」も「社会主義」は、どちらも「自由」を標榜する。
しかしにも拘わらず、いやむしろだからこそ、ここには
架橋しがたい対立が生じるのである。

自由主義者たちからすれば、彼らの獲得した財産を
「公正な再分配」なる名目で巻き上げて行く政府は、
自分たちの自由や権利を侵害する存在以外の何ものでもない。
自由主義者にとって「積極的自由」とはいらぬお節介なのだ
あるいは、それは彼らを弱者救済というルールに縛る、という
点から見れば一種の拘束であり、従って自由の侵害ですらある
あくまで、見方によってはの話であると了解されたい)。
やや寄り道になるが、自由主義と呼ばれる立場が一般に
小さな政府」を志向することは、こういった事情のためである。

他方、社会主義者に言わせればこうした自由主義者の発言こそが
弱者の「積極的自由」を奪うものであり、自由の侵害である。
勿論、彼らは高負担・高福祉という社会を望ましいと考え、
それを主導できる「大きな政府」を目指す。
これが、消極的自由と積極的自由が両立しない典型的な事例である。


4.
これ故に、自由主義と社会主義の対立においては、
自らこそ自由の推進者であり、対立者は自由の敵である、
という主張を両陣営が盛んに言い立てるという珍妙な事態
が起きる。
しかし、振り返ってみれば当然であろう。
両者はそもそも、拠って立つ「自由」概念を共有していないのだ。
これを踏まえずに自由を論じると、議論は空中分解する。

勿論、このことには多くの人が気付いている。
一般にはどのようにこれらの「自由」が区別されるのかを、
それぞれの立場から確認しておこう。

 (1)「古典的自由主義 Classical Liberalism
 「消極的自由」のみで自由は足る、と考える立場。本記事が
 「自由主義」と述べた典型的なものはこれに当たる。

 (2)「ニュー・リベラリズム New Liberalism
 「積極的自由」を擁護する立場。本記事が「社会主義」と
 述べたものはここに相当する。

ただし、これらはあくまで経済に軸足を置いた名称だということには
注意が必要であろう。そもそも政治と経済を切り離すことは可能なのか、
という問題はあるにせよ、これは断っておかねばならない。

また、本記事がここで名前を挙げた「古典的自由主義」と
「ニュー・リベラリズム」は、大体アメリカのニューディール政策と
ケインズによる理論の成立を境目にしている。つまり、1930年代の
中頃を基準に「Classical」と「New」と言っているのであり、全く
現代的ではないことを断っておく必要があるだろう。

勿論、「古典的自由主義」と「ニュー・リベラリズム」は1か0かの
関係にはなく、実際にはどれくらいまで政府が市場に介入するか、
またどれくらいの税率を課すか、という案配の問題であり、
そこにはグラデーションがある。
しかし、第二次大戦後の世界、特に欧米圏では戦前に比して
「ニュー・リベラリズム」的な傾向を強めた。一般的な事柄として、
これは間違いない。


   ◇◇◇

話が長くなったが、しかし、終わる気配がない。
今回はここまでとして、前回の記事で扱った問題に、
最後に少し触れよう。
現政権(2017年1月6日現在:第二次安倍政権を指す)、
あるいはその背後にあるとされる日本会議なる組織がリベラルなもの、
自由民主主義的なものを忌避する、というあの主張である。

そもそもこの問題意識自体が、
どういう意味でのリベラルと自由民主主義を指しているのか分からない
だからBuzzワードだと私は言いたいのだが)。
しかし、取り敢えずアベノミクスを見れば、これは
金融緩和政策と積極的財政政策という態度からして、
かなりケインズ的なものなのではないかと感じられる(私の理解が
間違っているのかも知れない。誤りがあればご指摘賜れば幸いである
)。

つまり、「リベラル」ということが上記の「ニュー・リベラリズム」
を指すとすれば(戦後GHQ経由でアメリカから入ったとすれば、恐らくこの
辺りになるかと思われるのだが
)、現在の日本は割合リベラルだと
言えそうなのである。これはどういうことなのか。

敢えて強弁してしまおう。そもそもこんな風に擦れ違っていそうな
議論を私が真面目に考えねばならないこと自体が、如何に
「自由」という言葉がBuzzyであるかの証左なのである


しかし、(ややうんざりではあるが)まだ考えてみよう。
先回に取り上げた「リベラル」というものは、
実際には経済とは違う文脈で取り上げられるべきものなのかも知れない。
次回は、このことを見て行きたいと思う。
それは一言でいえば、「政治の文脈」であると言えるだろうことを
予告して、幕引きとしたい。



タイトル「民主主義とは何か」を見て本記事を読まれた方へ
 最終的にはこれらの議論が民主主義を考える上で必要だと考えてはおりますが、
 しかし大きな回り道をしていることも事実であり、現状、タイトルと内容が合致していない
 ことを遅ればせながらお詫び申し上げます。しかし、もう暫しお付き合いを賜れば幸いです。


                            
最後までお読み戴き有難うございます。共感を戴ける方は、
是非ランキングバナーのクリックをお願い致します。

 ブログランキング・にほんブログ村へ 

 ブログランキング・にほんブログ村へ 応援のクリックをお願い致します。
                             
最初に、お詫びと訂正を申し上げたい。
本ブログ記事「外国人犯罪は増えているのか?②」と
「外国人犯罪は増えているのか?③」で掲載した、
在日韓国人・朝鮮人の数について、私はこれを553,173人
申し上げていた。

この数字は 
法務省の在留外国人統計、より詳しくは
2015年12月1日時点での
「国籍・地域別 在留資格(在留目的)別 総在留外国人」なる
資料を参照したものだったのだが、この中には「観光・商用」等の
短期滞在者や中長期滞在者が含まれていることが分かった。従って、
いわゆる「在日韓国人・朝鮮人 」の人口として私が示した
数字は適切でなかった
ことになる。
(但し、日本政府観光局が公表している訪日外国人の観光者数等に較べて、
 法務省が公表している数は明らかに少ない。恐らく異なった基準で集計されている
 のだと思うが、私にはその差異が確認できなかった。ご存知の方がおられたら
 ご教示を賜りたい)


資料を正しく使おう、と偉そうに言っておきながらの
この不始末をお詫び申し上げる。この記事の中で
より正確な数を提示差し上げようと思う次第である。 


   ◇◇◇

本部ブログが参照する警察庁の資料では、
「来日外国人」という呼称は具体的に以下の通り定義されている。
「来日外国人」とは、我が国にいる外国人のうち、
いわゆる定着居住者(永住権を有する者等)、在日米軍関係者及び
在留資格不明の者以外の者をいう。
これは、警察庁による統計「平成27年の犯罪」533頁の註1である。
それ故に、本ブログではここで「来日外国人」から除かれた人々を
「在日外国人」として扱う。つまり「永住者」、「日本人の配偶者等」、
永住者の配偶者等」、「定住者」、「特別永住者」である。 
これで、警察庁が公表している「来日外国人」と「その他の外国人」
という区別の後者に、本ブログが言う「在日外国人」はほぼ一致するはずだ。
(*本当は明確な定義があってしかるべきなのだが、警察庁の統計にすら
 「在日外国人」の定義がないのはやはり問題だと私は思う。さらに、時おり
 問題視されるいわゆる「在日韓国人・朝鮮人」とは「特別永住者」を指すのだと
 すればなおさら定義は混乱していることになる。デリケートな問題だとは思うが、
 警察庁は現状把握のためにきっちり実数を統計として出すべきではないだろうか)

また、私本人の意図としては特に韓国人・朝鮮人の方のみを
取り上げたい訳ではないのだが、他方で「外国人」と一括りに
論じることも乱暴だと感じる。また、特に「在日外国人犯罪」に
拘りたいわけでもない。

そこで今回は、特に在日の方、あるいは来日の方が多い
中国・台湾、韓国・朝鮮、フィリピン、タイ、ベトナム、
フランス、ドイツ、ロシア、イギリス、
アメリカ、ブラジルというこれらの国々について、
まずは2015年「在日○○人」の数を算出するとともに、日本政府観光局
資料を基に「訪日○○人」の数を提示する(犯罪統計では台湾が中国に含まれる
ため、ここでは中国と台湾を合計して扱う
)。

加えて、この「訪日○○人」を「来日○○人」と見做して
それほどのズレはないだろうと判断したが、予想以上に不適切かも知れない。
有用な資料をご存知の方がおられればご紹介を賜りたい
)、
「在日○○人」と「来日○○人」の検挙数、検挙人員数、
さらには犯罪率をそれぞれ産出する。
これで、日本における外国人犯罪、というものの実態が
もう少し明らかになるはずだ。


   ◇◇◇

実際に見て行こう。

【在日○○人と来日○○人】 2015年12月1日時点 単位は人
    
        在日      来日

 全体   1,379,946   19,737,409

 中国・台湾   326,590   8,670,764
                 中国    299,407   4,993,689
                 台湾      27,183   3,677,075
 
 韓国・朝鮮 435,736   4,002,095
 フィリピン 198,365      268,361
 タイ      30,471      796,731
 ベトナム    22,498      185,395

 フランス    3,922    214,228
 ドイツ     2,241    162,580
 ロシア     5,171      54,365
 イギリス    8,042    258,488

 アメリカ    26,984   1,033,258

 ブラジル  171,752        34,017

【検挙数と検挙人員】(刑法犯に限る)


  在日(検挙数・検挙人員) 来日(検挙数・検挙人員)

 全体        6,600 ・ 4,859    9,417  6,187

 中国・台湾   1,048 ・   979    2,518 ・ 1,972
 韓国・朝鮮   3,453 ・ 2,321       543 ・   444
 フィリピン    390 ・   348      450 ・   435
 タイ         32 ・   33         65 ・     72
 ベトナム       253 ・   114    2,556 ・ 1,475

 フランス       3 ・   3      41 ・    32
 ドイツ        3 ・   3      22 ・    20
 ロシア        24 ・   17      59 ・    60
 イギリス       13 ・   13      31 ・    29 

 アメリカ         123 ・   129      138 ・ 103

 ブラジル         648 ・   367         1,282 ・ 358
警察庁により公開されている統計「平成27年の犯罪」から。
 各国の在日外国人の検挙数・検挙人員については 「外国人による犯罪」の
 国籍別の数値を示した表(p.534)から、「来日外国人による犯罪」の
 国籍別の数値を示した表(p.542)の数値を除いて計算した。
*在日アメリカ人の検挙数・検挙人員には軍人、軍属、軍人・軍属の家族等が
 含まれる。

 
これらの数値を基に犯罪率を算出すると、以下のようになる。
日本人による国内犯罪の数値も併記しておこう。

【犯罪率】 *有効数字2桁。検挙数ベース・検挙人員ベースの順で表記する。

 日本               0.27%・0.18%

                          在日                       来日


 全体     0.48%0.35%   0.048%0.031%

 中国・台湾  0.32%・0.30%   0.030%・0.023%

 韓国・朝鮮 0.80%・0.53%   0.013%・0.011%
 フィリピン 0.20%・0.18%       0.17%・ 0.16%
 タイ    0.11%・0.11%    0.0081%・0.0090%
 ベトナム  1.1% ・0.50%       1.4% ・ 0.80%

 フランス  0.076%・0.076%    0.019%・0.015%
 ドイツ   0.13%・0.13%    0.014%・0.012%
 ロシア   0.46%・0.33%      0.11%・ 0.11%
 イギリス  0.16%・0.16%    0.012%・0.011%

 アメリカ  0.46%・0.48%    0.013%・0.010%

 ブラジル  0.38%・0.21%        3.8%・1.1%

在日外国人の方については、全体の平均より高い数値を赤
日本人よりも低い数値を青で示した。ロシアやアメリカの数値が
高めに出ていることは見逃せないとしても、フィリピン、タイ、
フランス、ドイツ、イギリスといった国々の方は、日本人よりも
むしろ犯罪率が低い
。個人的には有難いことだと思う。

対して、韓国・朝鮮、ベトナムの数値が顕著に高いことも指摘せねば
ならない。特にベトナムは検挙数ベースでの割合が高く、
これは一人の犯罪者が複数の犯罪に関与する傾向があることを示す。
いずれにせよ、この二つが平均を押し上げる結果となっているようだ。


また来日外国人の方々を見ると、ベトナムとブラジル、
特にブラジルの数値の高さは際立ったものがある

加えて、特に問題視されがちな中国や朝鮮の方について
述べておくと、中国・台湾の数値はやや高いものの、
韓国・朝鮮については欧米の水準と同等か、あるいは
平均を下回るのではないかという数値になった。
こと来日外国人として区分けする限り、韓国・朝鮮の方の
犯罪率は決して高くないことは強調してもいいだろう。



   ◇◇◇


以上、訂正と補足を申し上げたい。

その上で私見を申し上げれば、特定の国・地域から
来日される外国人の方の犯罪率が高い、という事実は
認められねばならない
。これは、何らかの対策が必要な
水準だと言えるだろう。

また特定の国籍を有する在日外国人の方の犯罪率が高い、
ということもやはり認められねばならない
。これも同様に、対策が
必要な水準だと私は思う。統計上の誤差で済ませるには
この数値は大きすぎるのではないだろうか。

繰り返し、関連記事を通じて提示した本ブログの見解を申し上げる。
それは、「外国人犯罪が増加しているという事実はない」が、
外国人犯罪の件数が相対的に多いことは事実である」とうものだ。
それは、人口当たりの犯罪率という仕方で明確に示されたように思う。
そしてさらに、これが「外国人一般」などではなく、特定の国・地域の人々
と日本という国の関係において浮上する問題であることを
ここではっきりと申し上げたい。


先にも述べたが、私は基本的には共生を志向する人間の
つもりである。だからこそ、解決されるべき問題の存する
ことから眼を逸らしてはならないと思う。


                             
最後までお読み戴き有難うございます。共感を戴ける方は、
是非ランキングバナーのクリックをお願い致します。

 
 ブログランキング・にほんブログ村へ 

 ブログランキング・にほんブログ村へ 応援のクリックをお願い致します。
                            
*2017年1月2日補足:資料の扱いに誤りが判明したため、
 外国人犯罪は増えているのか?④にて補足と訂正を行い、
 本記事にも修正を加えている。お詫び申し上げたい。


(ヘイトスピーチとはこんなもの、という話)

この年末年始にかけて偉いことになっているようだ。

先だって本ブログ記事「外国人犯罪は増えているのか?」で
取り上げた「脱「愛国カルト」のススメ」様、また
同じく「外国人犯罪は増えているのか?②」で
tacodayoのブログ」様の間で、諍いが発生している。

元々の発端は
「 坂東忠信「外国人犯罪は増加している」←この10年間一貫して減り続けています
という「脱「愛国カルト」のススメ」の記事(2015年12月03日)
であり、外国人犯罪(管理人の桑原一馬氏のニュアンスを加えると、
特に在日韓国人・朝鮮人犯罪だろうは減少し続けている、という主張が
なされていた。

対して、「tacodayoのブログ」で
『脱愛国カルトのすすめ』 という嘘とデマで塗り固めた反日ブログ
という反論記事が掲載されたのが12月25日(なお、現在は「その1」と
して記事タイトルが変更されているようだ)。
こちらでは「脱「愛国カルト」のススメ」を参照しつつ、
その言説は誤りであるとして外国人犯罪は益々激増している
と主張されている。

本ブログの主張は、それぞれ当該の記事を参照して戴きたい。
しかし結論だけを言えば、tacodayo氏の主張はその根拠として
提示されたデータの取り扱いに明確な不備があり、正当なもの
とは認められないこと
、そして他方、単に外国人犯罪は減少して
いるという桑原氏の主張もまた、検挙人員の増加と全体に占める
外国人犯罪の割合の上昇について無批判である点は公正でない

と纏めることができる。

以上が、本ブログから見た簡単な経緯である。


   ◇◇◇

以下、本ブログでは参照記事のタイトルを紹介しない。
 記事中にも述べる通り、あまりに見苦しく、文面を汚すことに
 私が耐えられなかったからである

さて、その後「tacodayoのブログ」では
上記記事の継続記事が掲載されるなどしていたようだが、
12月31日に桑原氏から再反論記事が提示された。
同日中にはtacodayo氏もこれに応答する再々反論記事
また更に同じ日に桑原氏も再々々反論記事を出されるなど、
大晦日の最中に激しい遣り取りがあったようだ。

基本的には、桑原氏は本ブログでも指摘した
tacodayo氏の資料の不備を問題視しており、対して
tacodayo氏はやはり本ブログで取り上げた犯罪率の
高さを強調する、という具合になっており、
その結果、論点は当初のものからズレてしまっている。
個人的な判断で恐縮だが、
この論点のズレはtacodayo氏の責に帰すべきものだろう。
桑原氏はそもそも検挙数のみを問題として
論じていたのだから、この限りでは桑原氏に責任は無い。

また何より、tacodayo氏は自身の資料上の不備を
説得的に訂正できていない。にも拘らず自説を強弁するのは
望ましい態度とは言えないだろう。主張を撤回の上、
改めて犯罪率を問題にされる方が適切であろうと思う。
この点、私はtacodayo氏の態度に極めて批判的であることを
申し上げておこう。

またその後、tacodayo氏の側では更に三つの記事が
出されている(掲載順に、としてリンクしておく)が、
これははっきり申し上げて論評に値しない。


   ◇◇◇

論点がズレてしまったことを承知で言えば、
両者の主張は平行線を辿るしかないだろう。
桑原氏は検挙数を問題にしており、tacodayo氏は
犯罪率を問題にしているのだから、噛み合わないのは
当然である。しかし、本ブログが取り上げたいのは
この平行ではない。

このように申し上げよう。両者が口汚く罵り合う姿こそが、
私が最も批判したく思うものなのである


特に、tacodayo氏側からの罵倒はここに記すにも
耐え難いものがある(私の感覚では、という話に
過ぎないのかも知れないが)。論争をするつもりが
あるのだとすれば、最低限の敬意は断じて払われるべきだ。
それをゴキブリ呼ばわりでは、筆者の良心を疑われても
仕方あるまい。

対する桑原氏の側も、売り言葉に買い言葉、という点は
あったにせよtacodayo氏を貶める言説は全く褒められた
ものではない。
「このブログのコメント欄では人種・民族・性別・門地等に
対する差別的な書き込みを一切認めていません。そのような
書き込みをした者は一発レッドカードでブロックし、
IPアドレスを公開いたします。」と冒頭に宣言するブログの
管理人として、これは分別ある態度と言えるだろうか。

徒に負の感情をぶつけ合うばかりでは、無暗な対立が
増すばかりである。カテゴリランキングの上位に位置する
ブログがこれでは、日本という国のレベルも知れたものだ。
私ははっきりとそう申し上げたい。
ヘイトスピーチはお好きになされば宜しいが、
その時、最も貶められているのは発言者自身の価値だと
私は思うし、そう考える人間がいることをお忘れなきよう
双方に心がけて戴きたいものだ
。 


   ◇◇◇

このように述べた上で、少し付け加えておきたいことがある。
2015年12月の時点で、日本に住む日本人の人口は125,309,208人。
また在日朝鮮人・韓国人の数は553,173人だった。
これは外国人犯罪は増えているのか?②」で紹介した数字だが、
これと日本国内での検挙数、検挙人員数を比較すると、
検挙数ベースで在日韓国人・朝鮮人の方々は訳2.3倍、
検挙人員にして訳2.9倍の犯罪率だという結果になる

*訂正:本記事で提示した在日韓国人・朝鮮人の数に誤りがあった。
 短期滞在、中長期滞在者等を除いて435,736人とした方が適切だったものと
 思われる。お詫びして訂正したい。またそれ故、犯罪率の比較は訳3.0倍と
 訳2.9倍となる

また外国人犯罪は増えているのか?」でも述べたように、
検挙人員ベースで見たならば僅かながら外国人犯罪は
増加の傾向にある

このことに、桑原氏はやはり真正面から答えるべきだと思うのだ
こう言っては何だが、tacodayo氏の主張は
 少なくとも今回に限ってはその正当性という意味で論外である


勿論、この犯罪率という数字はそもそも桑原氏が問題にしているものでは
ないし、その限りで言えば氏には必ずしもこれに答える必要はない。
しかし、例えば「共生」という言葉を用いるとすれば、それは
問題を否定することにより達成されるものではなく、むしろ
問題を認め、それを解決すべく努力することによってこそ達成される
はずのものではないだろうか


犯罪率が高いから外国人なんて排斥してしまえ、という理屈が
必ずしも正しいとは私は思わない。しかし、存在する問題に
眼を瞑る姿勢はそれ以上に問題だと私は思う。この姿勢は、
根本的なレベルでは何一つとして解決をもたらすことがないからだ。


そしてこれは、公正性という意味において、常に求められるべき
ものだとも私は思うのである。


                            
最後までお読み戴き有難うございます。共感を戴ける方は、
是非ランキングバナーのクリックをお願い致します。

 
 ブログランキング・にほんブログ村へ 

 ブログランキング・にほんブログ村へ  応援のクリックをお願い致します。
                               
(何となく、同じ問題だと思えたので勝手にシリーズ化してしまった。
 ただし、話題としては政治はかようなものかしらとは別である)


駒崎弘樹氏の公式サイトにあるBLOGに、
「「政治家がバカになる」仕組みを、そろそろやめよう」なる記事が
掲載されている(2016年12月29日付)。

簡単にまとめると、氏の記事はこの時期にそれぞれの地元で
行われる自治会の忘年会や消防団の年末集会、そこに
呼び出される政治家の姿に疑問を提示するものだ。

彼らは地元の有権者のメンツのために呼び出されるだけであり、
そこには政治課題を語りあおうという地元民側の姿勢は無いという。
また、この手の有権者は利益誘導を要求するのみであり、
この国をどうするか、などという視点からはほど遠い「消費者」として
振舞うことが指摘されている。

それよりも、政治家が本来時間を割くべき政策課題の研究や議論に、
政治家本人が集中できるようにするべきだ、というのが駒崎氏の主張である。
解決策は、我々有権者が握っています。すなわち、我々が国会議員に対し
「この新年会には、もう来なくて良い。
本を読んだり、
社会問題の現場に足を運んでほしい。それがあなたの本当の仕事だ」

と言ってあげるのです。
                                (改行は引用者による)

私は、氏の言葉には一定の説得力があると思う。
実際、自治会のイベントに足を運んでおられる政治家の方々を見て、
似たような印象を持ったこともある。
ただし、他方で「社会問題の現場に足を運んでほしい」という主張には
やや疑問を感じなくもない。病児保育問題に関わっておられる駒崎氏の
立場を見ると、「自治会ではなく私のところに来て欲しい」という主張にも
見えてしまうからだ。しかしそれは、私が穿ったものの見方をし過ぎている
のだと自覚してもいるのでお許し戴きたい



  ◇◇◇

さて他方、駒崎氏へのリアクションとして
早川忠孝氏のブログ「早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」」
「政治家がバカになる仕組み?ちょっと意地悪ですね」という記事が
掲載されている(2016年12月30日付)。

早川氏は駒崎氏の主張を
「選挙民の啓蒙のためのアジテーションとしては秀逸の類」
と認めながらも、しかし
「新年会や忘年会に一生懸命顔を出している国会議員たちを相当軽んじている」
と反論されている。纏めるよりも引用した方が
分かり易い文章だと感じたので、以下に引用させて戴く。

ご自分で選挙をやったことがない人は、
選挙に出ている人たちの苦労や日頃の精進にまったく理解がないことが分る。

まあ、地元の有権者の方々が地元への利益誘導ばかり考えたり、
自分たちの個人的利益ばかり追求するようになると問題だが、
そういうことは想像している以上に少ない。

デスクワークばかりしている役所の人よりも、
一般の方々の声にしっかり耳を傾ける国会議員たち、
現場の声をよく聞く国会議員たちの方が中身がよく分かり、
実感を持って語ることが出来るようになることが多い。
特定の支持団体とばかり付き合っていたり、
ごく少数の地域ボスとの関係を大事にする人よりも、
様々な地域や団体の新年会や忘年会に出席して末端の声を
吸い上げるべく努力している人の方が将来的には
遥かに役に立つ存在になる可能性がある。

駒崎さんの論稿にそれなりの正しさがあることは認めるが、
自分の顔を売ろうとしてあちこちの新年会や忘年会を
駆けずり回っている人たちの意気を阻喪させるようなことは止めた方がいい。

無駄なことのように思えるかも知れないが、
多くの人と会えば会うほど議員の方々は学ぶことは多いはずだ。

地元の方々から支持を得られないようでは、国会議員は大した仕事は出来ない。

本を読んで足りるのは、多分、学者や研究者の世界。
国会議員は、足を使って様々なことを学ぶものである。

地方議員の方々も基本的には同じだと思う。

さて、私は早川氏の主張にも正しさはあると思う。しかし、
「ご自分で選挙をやったことがない人は、
選挙に出ている人たちの苦労や日頃の精進にまったく理解がないことが分る。」

というお言葉には大きな疑問を抱く。
これはつまり、「素人は黙ってろ」という理屈であり、
「やったことのない奴に本当のことなど分かるはずはない」という
論法に見えるからである。これがまかり通るなら健全な議論は成立しない

そしてもう一つ、この反論は国会議員たちが
一般の方々の声にしっかり耳を傾け」、また
現場の声をよく聞く」ことが前提になっており、更に
特定の支持団体とばかり付き合っていたり、
ごく少数の地域ボスとの関係を大事にする人よりも、
様々な地域や団体の新年会や忘年会に出席して末端の声を
吸い上げるべく努力している」ことまでもが前提になっている。
駒崎氏の主張がやや一方的であるとは私も思うが、
それに対する反論としてはあまり十分ではないだろう。

恐らく早川氏としては「このような志でもって我々は活動しており、
その交流をむやみに否定するようなことは主張には同意しない」と
言いたいのであろうし、その意味ではそもそも両者は
事実を争っているのではない

そして元より、駒崎氏の主張は国会議員へ向けた批判ではなく、
有権者への批判である。しかし、それだけに早川氏の反論に私は
危うさを感じる。

何故、早川氏は「一般の方々の声を聞くこと」と
「自分の顔を売ろうとしてあちこちの新年会や忘年会を
駆けずり回っている」ことが結ぶ付くことを自明であるかの
如くに語るのだろうか

顔を売ろうとして時間を空費している、という批判に対して
この答は不十分だ。
しかもそれでもって、自分たちが「実感を持って」問題を
語ることができることが多い、と胸を張って言えるのは何故だろうか
駒崎氏の批判は、本当にそうか、と言っているのだ。

早川氏は、あまりに無頓着かつ無自覚に、
「そんな問題はない、私たちはちゃんとやっている」と断じている

正直に言って、これではただの独断であり、仮にも
一国の政治家たる方の言葉はお粗末である。
この限りで、私は早川氏の回答を肯定的には評価しない。


   ◇◇◇

ただし、これだけは述べておこう。
私は早川氏が示された心意気、志と呼ぶべきものは全く正しいと思う
それが十分に達成されているか否かは別として、
早川氏の回答は政治家が如何にあろうとしているか、
その一つの理想を示している。
そしてその姿勢自体は、決して批判されるべきではない。
少なくとも私はそれを好ましいと感じるし、
それだけに、その理性が既に達成できてしまっているかのような
早川氏の言説に反感を覚えるのだろう。

早川氏には、なお自問自答しつつあるべき姿を
探求して戴ければと思う。謙虚、という言葉は好きではないが、
「これで十分だ」と思った瞬間に、
それ以上の成長は望めなくなってしまうものだろう。

そして他方、我々有権者もまた同様に、
「これで十分だ」と考えてはならない。その思考は、
政治家の成長、ひいては政治そのものの成長を
止めてしまうのかも知れない。


それ故に、もともとの駒崎氏の主張が有権者に向けられたもの
だったことを踏まえて、こんな風にまとめておこう。
少なくとも、地域との繋がりや地元民との交流の中で、
大きな問題を捉え、国をよくしようと懸命に働いている
政治家が存在する
。たとえそれが理想論に過ぎないとしても、
そのようにあるべきと考え、行動している政治家がいる。
そのことを、まずは我々も理想と知りつつも受け容れねばならない。
それこそが、あるべき政治の姿ではないか。

そして、そんな理想的政治家に相応しい有権者として、我々は
振舞うことができているだろうか
「我々はよりよき有権者であるべき」だ
という主張を、駒崎氏の主張、そしてそれに応答する政治家としての
早川氏の熱意が行き交う中で、より切実なものとして我々は
受け取るべきではないだろうか


おそらく、駒崎氏と早川氏、両者の問題意識は
正当なものとして受け取られるべきだと私は思う。
そして、如何にすればよりよき政治は可能となるか、
ということを、我々は問い続けねばならないのだ。


                             
最後までお読み戴き有難うございます。共感を戴ける方は、
是非ランキングバナーのクリックをお願い致します。

 
 ブログランキング・にほんブログ村へ 

 ブログランキング・にほんブログ村へ 応援のクリックをお願い致します。
                            

「戦後レジーム」からの脱却を諦めたのか」。
こんな見出しを月刊日本が打った。
安倍首相の真珠湾訪問をどう見るか」という記事の冒頭である。

どうも、対米従属として安倍首相の真珠湾訪問を否定的に捉える
論調のようだ。戦没者の慰霊(少なくとも公にはそうなっているはずである
が対米従属だと言うのは、悪意のある解釈だと私は思うが、
それは措いておこう。

上記の記事は、『日本会議をめぐる四つの対話』からの引用へと進む。
どうも真珠湾訪問を機会に
「対米従属」を論じ、更には関係書籍の宣伝をしようということだったようだ。
別に、それ自体は構わない。議論にはそれに適した時節というものが
あるのだろうから、それを捉えてさえいれば
捉えていないし、主張内容も無理筋だと私は思うが)。 

以下、同記事が紹介する『日本会議をめぐる四つの対話』からの
孫引きである。具体的には、白井聡氏の言葉の引用となる。

日本会議が現行憲法を批判するのは、対米従属についてきちんと考えずに、
感情ベースでのみ捉えているからじゃないかと思います。
彼らがなぜ憲法のような抽象物をあれほど憎めるのだろうかと考えた時、
あれは反米感情の代償行為だと思うんです。つまり、戦後憲法がけしからんと
言うのなら、本来であれば憲法を作ったアメリカを批判すべきですが、
それができないものだから、アメリカを憎む代わりに
アメリカの置き土産を憎んでいるんですよ。
これは、日本会議がリベラルなものに対してほとんど生理的なまでに嫌悪感を
持っていることについても言えると思います。なぜ日本が一応自由民主主義を
公的価値とする社会になったかと言えば、要はGHQがそのように改革をしたからです。
だから、リベラルな権利要求を批判するなら、そのような社会作りを強制したアメリカに
従属していていいはずがない。
だけど、彼らには対米従属という問題系は全然ありませんよね。


[議論が一方的ではないか?]

何故か議論が日本会議批判に移っていることは、ここでは問題にしない。
私が不思議に思うことは、まず一つには、「憎む」とか「嫌悪感」という
感情論としてある種の主張が片付けられようとしている
ことだ。
これははっきり言って、議論として失格である。

「結局は、嫌いだからそんなこと言うんでしょ?」がまかり通るなら、
議論の余地など残らないからである。相手は非理性的だから、
言うことを聞く必要などない、と一方的に断じるにも等しい。
あまりに身勝手かつ独善的な勝利宣言ではないか。
実際、この手の主張が今の日本には蔓延していると私は感じている。
 この意味でまっとうな言論空間など、殆ど期待できないのではないかと感じるほどだ。
 但し、そもそも議論などする気がない、という可能性については否定しない

しかも、対米従属そのものは議論の前提となっている印象を受ける。
これは公正ではないと私は思う。
私は、日本がアメリカに対して従属していない、と主張するつもりはない。
 しかしこれは、従属している、と主張する人々が証明するベき事柄であろう

なお、私には日本会議を擁護する意図はない。
単に、この日本会議批判はあまり公正ではない、
と言いたいだけである。


[自由民主主義とはアメリカ的なのか?]

また、白井氏の言葉によれば「憲法は憎いが、
しかし憲法を作ったアメリカを批判できないから、その代わりに憲法を憎む」
という構造があるという。これは循環しており、これはどこがスタートか分かり辛い
ので自分なりに整理してみよう。

恐らく、氏は「アメリカの代わりに憲法を憎む」がスタートだと
言いたいのではないかと思う。だとすると、同種の事柄として
理解されている「リベラルな権利要求への批判」もアメリカへの憎しみの
代償行為ということになるだろう。

つまり、「アメリカ的なもの」への憎しみを行動原理とするにも拘わらず、
外交的には対米従属だという矛盾を氏は指摘しているのであろう。
しかしここに、私の第二の疑問がある。
それは「自由民主主義を日本が公的価値としている」という事実主張、
そしてそれを作ったのがアメリカ(あるいはGHQ)である、という事実主張である。
これは本当なのだろうか。


前置きが長くなった。私はこのことを「民主主義とは何か」という論点から
問い直したいと思っている。それも、それなりの時間と記事の回数をかけて。
もう少し言えば、「民主主義」という言葉があまりに便利に、しかも各々の立場に
おいて身勝手に使われている現状を私は嘆いている。
今回はその契機として、「自由民主主義」なるものを見て行こう。

最初に確認しておかねばならないことは、「自由民主主義」という言葉が
自由主義liberalismと民主主義democratismのハイブリッド、あるいは
自由主義liberalismと民主制democracyのハイブリッドである、という点である。

私が関心を持つ本丸はむしろdemocratismとdemocracyの方なのだが、
今回は民主制という政治形態(普通選挙による議会政治)と、
それを志向する主張としての民主主義、というくらいで留めておこう。
いずれ、詳しく調べて記事を書きたいと思う。

さて、もう一方の自由主義liberalismについてだが、
この「自由主義」とは決して一義的な言葉ではなく、様々な文脈で
異なった意味において語られる。このことを踏まえずに自由主義を
論じるのは不適切であろう。しかしこの点が、私の力不足もあって
よく分からないのである。

「リベラルな権利要求」とは、何を意味するのか。推測に過ぎないが、
恐らくは「社会自由主義social liberalism」的な権利要求、ということ
なのだろう。しかし社会自由主義とはGHQが日本にもたらしたものなのか。
取り敢えず、トルーマン時代のアメリカの経済政策が
古典的自由主義からの脱却を目指したフランクリン・ルーズベルトの
ニューディールを受け継いでいたことは間違いないし、その点では
間違いではないのかも知れない。
しかし、これが現代日本の「リベラル」と結び付くのかと言えば、
もう少し慎重な議論が必要ではないか。

これらの論点を押さえていかなければ、本来は
自由主義(それも、ある特定の自由主義)も民主主義(これも、ある特定の民主主義)も
語ることができないはずなのである。
しかし、その議論は放り出されている。そんな風に私は感じる。


今回の記事は中途半端になってしまったが、
取り合えず問題意識を示したところで、次回への準備としたい。

ただ一つ言いたいのは、こうした「○○主義」なるものが、
あまりに無定義に氾濫している現状は是正されねばならない、
ということである。

錦の御旗だけ掲げても、正しさは証明されないのだから。
そして勿論、これらを論じ尽した先にこそ
「戦後レジーム」というものも見えてくるはずなのである。


                            
最後までお読み戴き有難うございます。共感を戴ける方は、
是非ランキングバナーのクリックをお願い致します。

 ブログランキング・にほんブログ村へ 

このページのトップヘ