カガミナオヤの口先百編

タグ:民主主義とは何か

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[バズワード (buzzword):一見、説得力のある言葉のように見えて、
 実は定義や意味があいまいなキーワードのこと。]

                               コトバンクより

(もっと(私が)勉強しなくちゃ、という話)

一昔前に、プラスティック・ワードという言葉が流行った(?)が、
最近でも似たようなものはないかと探してみたら、「Buzzワード」というのが
見つかった(私が思うほど最近では無いかも知れないし、既に過ぎ去りつつある言葉かも
知れないが
)。さっそく、使ってみようと思う。私の感触としては、
こと「自由」やら「民主主義」やらという言葉には、
こちらの方がしっくりくる。確かに、これらの言葉には
どことなく喧しい響きがある(気がする)からだ。


さてもう一つ、こちらは反省である。
先回、「民主主義とは何か?①」では「民主主義」を扱うはずが
自由民主主義」とは何かを考えることになり、更にはそもそもこの
頭にくっついた「自由」とは......と話が的を失ってしまった。
結果として、「○○主義」という言葉自体が無定義に氾濫してはいないか、
と(やや無責任にも)疑問を提示するに至ったわけだが、してみると、
そもそもこれらの「民主主義」、「自由」、さらには「リベラル」等の
言葉自体が、上で言うBuzzワードだったのではないか。

私の不手際は、BuzzワードをBuzzyなままに使おうとした点に
会ったのではないか今は感じている。そこで、まずは(あくまで私なりに、
であって学術的なスタンダードではないにせよ
)これらの言葉を定義するところから
改めて始めることにしたい。しかし、これも簡単に済む話ではない。
一歩ずつ、先回に引っかかった「自由」から取り上げて少しずつ進んで行こう。
目標は、この言葉について回る曖昧さ(私が感じているだけかも知れない)を
できるだけ減じることである。
「民主主義」に議論が届く日は遠くなりそうだが、そこはご寛恕を戴きたい。


   ◇◇◇


【積極的自由と消極的自由】

1.
「自由」という言葉を考える時、そこには複数の文脈が混在している。
そして、それらが決して無関係では無いことが話を複雑にする。
しかしとにかく、出発点を確保するべく大づかみにしてみよう。
自由という概念は、次のように区分けすることができる。

 ① 何ものにも拘束されていないこと (=消極的自由
 ② 自分の思うままに行為できること (=積極的自由

当たり前だが、手足を縄で縛られた状態で歩くことができる人間は
常識的に考える限りで)いない。これは、歩かないことを強制されている、
拘束されているということであり、歩く自由を奪われている、ということになる。
逆に、縄を解けば歩く自由を得た、ということにもなるだろう。
これが「消極的自由」の典型的な例である。

他方しかし、いくら拘束が無いと言っても、何も持たせずに人間を
砂漠のど真ん中に「今日から自由だよ」と放り出しても、まず生存は
不可能である。ここまで極端ではなくても、拘束が無いだけでは
不十分だというケースは考えることができるだろう(何のために」不十分なのかが
当然問題になるが、一旦は措いて置く
)。少なくとも、砂漠に放り出された人間に
生きる自由がある、と主張することに問題がありそうだということは理解して
戴けると思う。
それ故、「自由」にはある程度まで「自身の望むことができる」という要素が
含まれると考えることができる。これが「積極的自由」の大枠である。

2.
さて、上には「区分け」と述べたが、この二つの「自由」概念は、
そこまで簡単に論じ分けられるものではない。まして、「積極的自由」が
「消極的自由」を補完する、という考え方にはやや無理が生じることには
注意が必要だろう。むしろ場面次第では、両者は鋭く対立する。

同じ例を見よう。砂漠に放り出された人間は仮に消極的には自由であっても、
積極的には自由ではない。「積極的自由」を重んじる人は、次のように主張する
だろう。「人が生存する自由を確保するために、何らかの準備が必要だ」と。
砂漠にオアシスを作るのでもいいし、あるいは砂漠から街に連れて行くのでも
いい。とにかく、「(積極的)自由のためには、それに相応しい仕組みが必要だ」という
主張がここに生じるのである。

これは、砂漠に放り出された人間・・・・・・折角だからリチャードとでも
名付けておこう。リチャードを都会の真ん中に連れて来ても同じである。
彼(男性だと仮定する)に何か図抜けた才覚でもあればともかく、
生活を保障してくれる最低限のものがなければ彼の生存する権利は
覚束ないのである。勿論、現代の社会においてはいわゆるセーフティーネットが
用意されている場合も多いから、そうした社会の中に放り出されたのであれば
彼は生き延びることができるだろう。しかし、ここがポイントである。
積極的自由を重んずる思想は、各人が自由であるよう社会そのものが
整備されることを要求する
のだ。これは、現代的な言葉で置き換えれば
正にセーフティーネットであり、社会保障や福祉政策の範疇になる。

対立が生じるのは、この点においてである。
以下、自由主義と社会主義という枠組みにおいてそれを見て行こう。


【自由主義と社会主義】

1.
さて、ここからいわゆる「自由主義」と「社会主義」という対立が見えてくる。
これらは、「積極的自由」をどれくらい担保するか、という問題を
経済に映しこんだもの
と言うことができるのである(少なくとも、図式的には)。

「積極的自由」を重んじない立場(「消極的自由」主義者と言えるだろうか)は、
簡単に言えば、出来る限りの拘束を取っ払って、後は自己責任、
というスタイルをよしとする。自分が手に入れたものは自分のものであり、
各人はこの全く平等な条件下で競争することになるが、それでいい。
この意味での「私有財産」の肯定競争原理の是認が、
即ち「自由主義」なのである。

砂漠に放り出されたリチャードは確かに生命の危機にあるが、
しかしオアシスを見つけたならば、それは(他人の所有物でなければ)彼のもの
である。そして将来的に、何か奇跡的な確率の下で油田でも発見したならば、
億万長者になることだってないとは言えない。そしてその時、リチャードは
そうして手にしたもの全てを「自分一人のもの」だと主張することができる。
敢えて良い側面を強調するなら、ハイリスクハイリターンが「自由主義」だと
言えるかも知れない。

2.
とはいえ、これはあまりに乱暴だという意見はありうるだろう。
見つけたものは自分のものだ、とは言っても、先に誰かが
取得していればそれを勝手に自分のものにはできない(あるいは、したければ戦争になる)。
「自由主義」にもルールは存在しており、しかも、
それは結果として勝者に都合のいいルールとなりがちなのである。
先に有意な立場を作ったものはその有利を活かして更に勝ち続け、
その差を覆すことは益々難しくなる(これは、実は世代間格差を考える際にも
重要だと私はおもう
)。これはよくない、と考える事情は理解してもらえると思う。

それ故、「自由主義」が標榜する自由や平等(いわゆる機会の平等である)は、
必ずしも文字通りのものとは言い切れない。言って見れば、それは
自由と平等の結果として生じた不平等(いわゆる結果の不平等である
を否定しない
のである(これはある意味では当然であり、
必ずしも批判されるべきものではないが
)。

これを是正しよう、という立場が「社会主義」である。
社会主義と一口に言っても内情は時と場所により様々だが、
いずれにせよ「自由主義の結果として生じる不平等を予防・是正する
という立場であることは認めてよいと思う(ここではこれくらいの広い意味で
社会主義を理解するに留めておきたい
)。

結論からすれば、このために「社会主義的な政策」とは、
社会保障や福祉に重点を置くものであり、また高所得者に課税する等の
手段による再分配を重視したものとなる
。そしてこれは、やや短絡で
あることを自覚の上で言えば、「積極的自由」のためなのである。


3.
さて、ここまで読まれた方は気付かれたことと思うが、
「自由主義」も「社会主義」は、どちらも「自由」を標榜する。
しかしにも拘わらず、いやむしろだからこそ、ここには
架橋しがたい対立が生じるのである。

自由主義者たちからすれば、彼らの獲得した財産を
「公正な再分配」なる名目で巻き上げて行く政府は、
自分たちの自由や権利を侵害する存在以外の何ものでもない。
自由主義者にとって「積極的自由」とはいらぬお節介なのだ
あるいは、それは彼らを弱者救済というルールに縛る、という
点から見れば一種の拘束であり、従って自由の侵害ですらある
あくまで、見方によってはの話であると了解されたい)。
やや寄り道になるが、自由主義と呼ばれる立場が一般に
小さな政府」を志向することは、こういった事情のためである。

他方、社会主義者に言わせればこうした自由主義者の発言こそが
弱者の「積極的自由」を奪うものであり、自由の侵害である。
勿論、彼らは高負担・高福祉という社会を望ましいと考え、
それを主導できる「大きな政府」を目指す。
これが、消極的自由と積極的自由が両立しない典型的な事例である。


4.
これ故に、自由主義と社会主義の対立においては、
自らこそ自由の推進者であり、対立者は自由の敵である、
という主張を両陣営が盛んに言い立てるという珍妙な事態
が起きる。
しかし、振り返ってみれば当然であろう。
両者はそもそも、拠って立つ「自由」概念を共有していないのだ。
これを踏まえずに自由を論じると、議論は空中分解する。

勿論、このことには多くの人が気付いている。
一般にはどのようにこれらの「自由」が区別されるのかを、
それぞれの立場から確認しておこう。

 (1)「古典的自由主義 Classical Liberalism
 「消極的自由」のみで自由は足る、と考える立場。本記事が
 「自由主義」と述べた典型的なものはこれに当たる。

 (2)「ニュー・リベラリズム New Liberalism
 「積極的自由」を擁護する立場。本記事が「社会主義」と
 述べたものはここに相当する。

ただし、これらはあくまで経済に軸足を置いた名称だということには
注意が必要であろう。そもそも政治と経済を切り離すことは可能なのか、
という問題はあるにせよ、これは断っておかねばならない。

また、本記事がここで名前を挙げた「古典的自由主義」と
「ニュー・リベラリズム」は、大体アメリカのニューディール政策と
ケインズによる理論の成立を境目にしている。つまり、1930年代の
中頃を基準に「Classical」と「New」と言っているのであり、全く
現代的ではないことを断っておく必要があるだろう。

勿論、「古典的自由主義」と「ニュー・リベラリズム」は1か0かの
関係にはなく、実際にはどれくらいまで政府が市場に介入するか、
またどれくらいの税率を課すか、という案配の問題であり、
そこにはグラデーションがある。
しかし、第二次大戦後の世界、特に欧米圏では戦前に比して
「ニュー・リベラリズム」的な傾向を強めた。一般的な事柄として、
これは間違いない。


   ◇◇◇

話が長くなったが、しかし、終わる気配がない。
今回はここまでとして、前回の記事で扱った問題に、
最後に少し触れよう。
現政権(2017年1月6日現在:第二次安倍政権を指す)、
あるいはその背後にあるとされる日本会議なる組織がリベラルなもの、
自由民主主義的なものを忌避する、というあの主張である。

そもそもこの問題意識自体が、
どういう意味でのリベラルと自由民主主義を指しているのか分からない
だからBuzzワードだと私は言いたいのだが)。
しかし、取り敢えずアベノミクスを見れば、これは
金融緩和政策と積極的財政政策という態度からして、
かなりケインズ的なものなのではないかと感じられる(私の理解が
間違っているのかも知れない。誤りがあればご指摘賜れば幸いである
)。

つまり、「リベラル」ということが上記の「ニュー・リベラリズム」
を指すとすれば(戦後GHQ経由でアメリカから入ったとすれば、恐らくこの
辺りになるかと思われるのだが
)、現在の日本は割合リベラルだと
言えそうなのである。これはどういうことなのか。

敢えて強弁してしまおう。そもそもこんな風に擦れ違っていそうな
議論を私が真面目に考えねばならないこと自体が、如何に
「自由」という言葉がBuzzyであるかの証左なのである


しかし、(ややうんざりではあるが)まだ考えてみよう。
先回に取り上げた「リベラル」というものは、
実際には経済とは違う文脈で取り上げられるべきものなのかも知れない。
次回は、このことを見て行きたいと思う。
それは一言でいえば、「政治の文脈」であると言えるだろうことを
予告して、幕引きとしたい。



タイトル「民主主義とは何か」を見て本記事を読まれた方へ
 最終的にはこれらの議論が民主主義を考える上で必要だと考えてはおりますが、
 しかし大きな回り道をしていることも事実であり、現状、タイトルと内容が合致していない
 ことを遅ればせながらお詫び申し上げます。しかし、もう暫しお付き合いを賜れば幸いです。


                            
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「戦後レジーム」からの脱却を諦めたのか」。
こんな見出しを月刊日本が打った。
安倍首相の真珠湾訪問をどう見るか」という記事の冒頭である。

どうも、対米従属として安倍首相の真珠湾訪問を否定的に捉える
論調のようだ。戦没者の慰霊(少なくとも公にはそうなっているはずである
が対米従属だと言うのは、悪意のある解釈だと私は思うが、
それは措いておこう。

上記の記事は、『日本会議をめぐる四つの対話』からの引用へと進む。
どうも真珠湾訪問を機会に
「対米従属」を論じ、更には関係書籍の宣伝をしようということだったようだ。
別に、それ自体は構わない。議論にはそれに適した時節というものが
あるのだろうから、それを捉えてさえいれば
捉えていないし、主張内容も無理筋だと私は思うが)。 

以下、同記事が紹介する『日本会議をめぐる四つの対話』からの
孫引きである。具体的には、白井聡氏の言葉の引用となる。

日本会議が現行憲法を批判するのは、対米従属についてきちんと考えずに、
感情ベースでのみ捉えているからじゃないかと思います。
彼らがなぜ憲法のような抽象物をあれほど憎めるのだろうかと考えた時、
あれは反米感情の代償行為だと思うんです。つまり、戦後憲法がけしからんと
言うのなら、本来であれば憲法を作ったアメリカを批判すべきですが、
それができないものだから、アメリカを憎む代わりに
アメリカの置き土産を憎んでいるんですよ。
これは、日本会議がリベラルなものに対してほとんど生理的なまでに嫌悪感を
持っていることについても言えると思います。なぜ日本が一応自由民主主義を
公的価値とする社会になったかと言えば、要はGHQがそのように改革をしたからです。
だから、リベラルな権利要求を批判するなら、そのような社会作りを強制したアメリカに
従属していていいはずがない。
だけど、彼らには対米従属という問題系は全然ありませんよね。


[議論が一方的ではないか?]

何故か議論が日本会議批判に移っていることは、ここでは問題にしない。
私が不思議に思うことは、まず一つには、「憎む」とか「嫌悪感」という
感情論としてある種の主張が片付けられようとしている
ことだ。
これははっきり言って、議論として失格である。

「結局は、嫌いだからそんなこと言うんでしょ?」がまかり通るなら、
議論の余地など残らないからである。相手は非理性的だから、
言うことを聞く必要などない、と一方的に断じるにも等しい。
あまりに身勝手かつ独善的な勝利宣言ではないか。
実際、この手の主張が今の日本には蔓延していると私は感じている。
 この意味でまっとうな言論空間など、殆ど期待できないのではないかと感じるほどだ。
 但し、そもそも議論などする気がない、という可能性については否定しない

しかも、対米従属そのものは議論の前提となっている印象を受ける。
これは公正ではないと私は思う。
私は、日本がアメリカに対して従属していない、と主張するつもりはない。
 しかしこれは、従属している、と主張する人々が証明するベき事柄であろう

なお、私には日本会議を擁護する意図はない。
単に、この日本会議批判はあまり公正ではない、
と言いたいだけである。


[自由民主主義とはアメリカ的なのか?]

また、白井氏の言葉によれば「憲法は憎いが、
しかし憲法を作ったアメリカを批判できないから、その代わりに憲法を憎む」
という構造があるという。これは循環しており、これはどこがスタートか分かり辛い
ので自分なりに整理してみよう。

恐らく、氏は「アメリカの代わりに憲法を憎む」がスタートだと
言いたいのではないかと思う。だとすると、同種の事柄として
理解されている「リベラルな権利要求への批判」もアメリカへの憎しみの
代償行為ということになるだろう。

つまり、「アメリカ的なもの」への憎しみを行動原理とするにも拘わらず、
外交的には対米従属だという矛盾を氏は指摘しているのであろう。
しかしここに、私の第二の疑問がある。
それは「自由民主主義を日本が公的価値としている」という事実主張、
そしてそれを作ったのがアメリカ(あるいはGHQ)である、という事実主張である。
これは本当なのだろうか。


前置きが長くなった。私はこのことを「民主主義とは何か」という論点から
問い直したいと思っている。それも、それなりの時間と記事の回数をかけて。
もう少し言えば、「民主主義」という言葉があまりに便利に、しかも各々の立場に
おいて身勝手に使われている現状を私は嘆いている。
今回はその契機として、「自由民主主義」なるものを見て行こう。

最初に確認しておかねばならないことは、「自由民主主義」という言葉が
自由主義liberalismと民主主義democratismのハイブリッド、あるいは
自由主義liberalismと民主制democracyのハイブリッドである、という点である。

私が関心を持つ本丸はむしろdemocratismとdemocracyの方なのだが、
今回は民主制という政治形態(普通選挙による議会政治)と、
それを志向する主張としての民主主義、というくらいで留めておこう。
いずれ、詳しく調べて記事を書きたいと思う。

さて、もう一方の自由主義liberalismについてだが、
この「自由主義」とは決して一義的な言葉ではなく、様々な文脈で
異なった意味において語られる。このことを踏まえずに自由主義を
論じるのは不適切であろう。しかしこの点が、私の力不足もあって
よく分からないのである。

「リベラルな権利要求」とは、何を意味するのか。推測に過ぎないが、
恐らくは「社会自由主義social liberalism」的な権利要求、ということ
なのだろう。しかし社会自由主義とはGHQが日本にもたらしたものなのか。
取り敢えず、トルーマン時代のアメリカの経済政策が
古典的自由主義からの脱却を目指したフランクリン・ルーズベルトの
ニューディールを受け継いでいたことは間違いないし、その点では
間違いではないのかも知れない。
しかし、これが現代日本の「リベラル」と結び付くのかと言えば、
もう少し慎重な議論が必要ではないか。

これらの論点を押さえていかなければ、本来は
自由主義(それも、ある特定の自由主義)も民主主義(これも、ある特定の民主主義)も
語ることができないはずなのである。
しかし、その議論は放り出されている。そんな風に私は感じる。


今回の記事は中途半端になってしまったが、
取り合えず問題意識を示したところで、次回への準備としたい。

ただ一つ言いたいのは、こうした「○○主義」なるものが、
あまりに無定義に氾濫している現状は是正されねばならない、
ということである。

錦の御旗だけ掲げても、正しさは証明されないのだから。
そして勿論、これらを論じ尽した先にこそ
「戦後レジーム」というものも見えてくるはずなのである。


                            
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